【求道者の全一なる帰依】


『求道者の全一なる帰依』(龍雲)
 ここでは、シュリー・オーロビンドの『聖なる母』取り上げるが、覚者大聖オーロビンドの教学を云々できるものを小生は一切持ち合わせていないことをお断りしておく。そのような者が、畏れを知らず、不遜を顧みず、ここに、大聖を取り上げたるは、不可思議なるおんみちびきによるとしか言いようがなく、また、この『聖なる母』に邂逅したがため、やむにやまれぬ、懇願にも似た、探究の愚童心に火がついたとしか言いようがない。とはいえ、その至らざるを、はじめにお詫びしておきたい。

 さて、ここで述べられている『求道者の全一なる帰依』(龍雲)は、自身がこれまで見据えてきた「求道と信仰の根幹」を激しく揺さぶるものがあり、自身の今の無知蒙昧性を激しく打ち据えるものであり、無視することのできない、真摯なひびきであった。

 よって、ここでは、オーロビンドをブッダ親説に絡めて、真理探究の礎とせんことを願うものである。
 
 まず、その探求の核心として、まさしく、『求道者の全一なる帰依』(龍雲)が、説かれているのである。

文献『梵我一如への方法論的集大成』シュリ・オーロビンド著。金谷熊雄訳。

永田文昌堂発行1962年6月1日。

『聖なる母』から

 1

 下方から呼ぶ不断にしてゆるがぬ切願、上方から応えたもうこよなき恩恵―このふたつの力が不ニ一体となつて、はじめてわれらが努めてやまないかの目標、大いなる雖事がここに成就する。

 といえ、こよなき恩恵は、光明と真理を縁として注がれ、虚偽と無知の諸縁から生ずるものには注がれない。恩恵が虚偽のもとめに応じてこたえねばならぬとすれば、それは恩恵みずからの目的をすてることになろう。
 このふたつの力は、光明と真理を縁とし、ただこれを縁としてこよなき力用が天くだるのである。上方から天くだり、下方から開くこのふしぎな力がわが身体にうつる自然を御し、その障りを払い去る

 帰依は全一にして真摯でなければならない。ひたすら浄くこよなき力に全托することである。われに下りくる真理をひたすら、しかもたえず望むことである。また地上を風靡する分別心と活力とからだのはたらきと、その様相を拒けることである。
 帰依は全一でなければならないわが存在のすべてを把握するもの、ただの知的呼応ではない、高き知性の承認だけではない、ただ内なる活力の服従、ただ内なる身体の威庄を感ずるだけではない。

 存在者のひとすみにも、いなその端くれにも、一物の保留をゆるさない。疑惑と困惑と言いのがれのかげにかくれて、逆らうもの、拒むものをひとかけらも保留することも許さない。

 たとえ、わが存在の一部がついえ去るも、他の一分をとどめ、我情に執らわれ、我性を縁とするかぎり、そのつど、われみずから恩恵を拒けていることになる。帰依と、捨身にかくれ、我意の固執を掩い、活力のおもむくところを蔽し、これを真の切願に替え、あるいは、固執と切願を混淆しながら、その責めを聖なる母の力(シャークティ)に転嫁し、わが心身の改変、転化を希って、聖なる恩恵をいのるも無用である。

 わが一面を真理に向け、他の一面を常に嫌うべきものの窓口に向け、恩恵の宿りたまえと願つても無駄である。宮居に神鎖まりたもうを願えば、まずその宮居をきよめなければならない。

 聖なる力わがうちにいりきたり、常に真理のあらわれきたるも、聖なる力に背向けて、ひとたび拒けた虚偽に、ふたたび呼びかけるごときは、その挫折の責めみずからの詐りこころの負うべきであり、これ帰依の全一性を欠けることにあって、恩恵にあるのではない。

 真理をもとめ、真理に呼びかけながら、依然うちなるものが虚偽と無知と汚染をえらび、いさぎよくこれを捨て去らねば、常に身は攻撃にさらされ、恩恵はしりぞく。まず内なる虚偽と蒙昧を見究め、これをねばり強く捨て去らねばならない。このとき、はじめて聖なる力に呼びかけ、転身を希うことができる

 真理と虚偽、光明と暗闇、掃投と我情は、神殿中に共在すると思い違ってはならない。転身はこれ捨身であり、捨身はこれに逆ろう一切を捨離することである。

 聖なる力は、わが願いをかなう。至高なるものの施設に心満たざるものがあっても、わが願いは、かなえられるように施設されている、という謬見を去れ、帰依もし真実にして全一なれば、そのときこそ一切の願事はかなえられる。

 また聖なる力、われを帰投せしむ、というような虚偽を捨て去れ。至高なるものは帰投を求めたまうも、強いて帰投せしめんとはしない。いついかなるときも改変することのない転身成就の暁にいたるまで思いのまま自由に、聖なるもの拒みしりぞけ、よしみずからよしとして、業果に苦しむとも。人は自業の果てを想起できょう。帰投は、みずから帰投することであって、他からしいておしつけるものではない。

 帰依は生々発刺としたものであって、惰性的ないし自動的機械のごときものでない。惰性的受動性は、ともすれば真の帰依と混同されるが、これからは真なるもの、力強きものは生れでない。これを曖昧にし、汚染にまかすのは(身体的物理的)自然の惰性的受動性に因る。法悦と力を与える帰依は、聖なる力用の活動に、輝かしい真理の使徒に、朦昧と虚偽に挑む内なる兵士に、そして忠実な神のしもべの素純さに求められる。

 これこそ、真の態度あり、帰依の心を内持するものは、失望に挫けず信仰を持ち続け、試練を経て、至高の勝利と偉大なる転身に至る。

(龍雲) 
●「切願と恩恵」ということは、この地上にはこびる苦悩と恐怖からの救済と神の無限の愛の恩恵の加護を求める祈りの本質をあらわす。これを仏教では加持護念、あるいは加持祈祷と表現している。真言密教ではこれを「為我功徳力、如来加持力、及以法界力、願成安楽刹、普供養而住」といい、自身と如来と法界(自然界)との加持護念の調和がはかられることを祈願する。仏教における誓願と慈悲の関係にあたる。

●「全一」にして「全托」
 全一とは分断が無いこと。2のない1としての全なる一者。分断とは自他の境界を設ける我の働き。しかるに、あらゆるものは、普遍から局所化した一個の全として出現。ミクロの粒子にしろ、マクロの無数の大宇宙にしろ、すべては「一者」としての統合性を保持しているがゆえに、現象化が起きている。この全一性は存在のすべてに透徹しているもの。局所化した個々が、この全一性を見失い、自我に収縮し、固着し、執着し孤立、孤独化することを分断という。すべてに通徹する全一性を見失うことが分断であるならば、先ず、全一性を見失わせる、自己中心性のあるがままの実態を自己凝視しなければならない。
 孤立する者同士がいかに徒党を組み互いに依存しようとも、所詮、孤立・分断の種を宿しており、やがて、更に、深い分断を引き起こす。
 孤立をもたらし、蒙昧な、自己中心性、欺瞞性、狡猾性、怠惰、搾取、傲慢、依存による腐心、機械的に停滞しきった所業など、数限りない自己のあるがままの姿を凝視観察すること。この自己凝視による観察と気づきが、我の虚妄性に終止符を打ち、隠されていた真の全一性が自ずと現れる。
 局所化されたものが全一性に気づき全一性のままに生きることをこそ「全托」といえるのではないか。ゆえに、「おのれを無にする」とか、「おのれを空にする」というあり方は、「無でないおのれを無にする」とか、「空でないおのれを空にする」という、そこに、ダメな者からましな者へ意志働いており、これは、たとえそのような境地を得たとしても、無でも、空でもなく、まして全托でもなく、自己欺瞞に陥っていることに気づけるだろうか。
 この世に生を得たものの、なにより大切なことは、「局所化されたものの中に現前する全一性の覚醒」にあるだろう。
 なぜなら、そもそも、全一性に分断はなく、全一性から出現している局所性にもそもそも分断はないのである。
 局所化に求められているものがあるとすれば、分断や固着、孤立ではなく、全一なる大宇宙、大自然会における個々の生命の全一なる自立、独居にほかならないのであろう。
即ち、局所が分断されるということは、全世界が分断されるといっても過言ではなく、故に、局所化されたものの覚醒が必要なのであろう。
 局所性が全一性と全く調和し、その中で独自性を発揮していることが実は全托なのではないだろうか。全托は、なにも局所性を放棄することではないし、まして、局所から全一へと移行する動きそのものは欺瞞に行き着く。
 局所が全一でない限り、分断された局所、即ち、自我が残るのである。この自我を如何に全一に近づけようとしても、自我を元にするかぎり、自我を離れない。自我という全一ならざる局所の分断がある限り、全一と局所は分離したままである。如何に巧妙に全一性を標榜しようとも、分断化した局所性に神性を見ようとも、分断である自我がある限り欺瞞に行き着く。
 分断のない局所。そこに透徹した全一性がある。故に、局所性の分断に気づくのは全一性であり、分断をもたらすものへの気づきが全一性なのである。
 したがって、分断をもたらすものの気づきのないところに全一性はなく、全托もない。全一性と全托は局所自身の気づきに依るのである。
 局所性のないところに気づきはなく、気づきがなければ分断があり、全一性は顕れない。  
したがって、前述の「為我功徳力、如来加持力、及以法界力、願成安楽刹、普供養而住」の三力加持は全一性への気づき、ひたすらなる自己凝視、内観による気づきを示すこととなる。三力加持の文言を読み上げたところで、ひたすら神や如来を念じてみたところで、内観による自我の気づき即ち如実知自心がなければ、虚妄に至るしかないことは自明の理なのではないだろうか。
  

 口先だけの懺悔の文や悔い改めや宗教的権威による裁きは、そもそも欺瞞であることは、誰でもわかることである。そのような欺瞞性は神や仏のなし給うところには非ず。分断した局所性の迷妄にすぎない。その迷妄に気づくことこそが、悔い改めの本質であり、真の自己変革をもたらすことは、動かしがたい事実である。

  さて、この観点から、オーロビンドの示唆をふまえて、自分自身をありのままに観察すると、どうなるであろうか?
 
●虚偽と無知の諸縁に依存している。

 ●地上を風靡する分別心と活力とからだのはたらきと、
  その様相を実体視し、囚われている。

 ●疑惑と困惑と言いのがれのかげにかくれて、真理に逆らい、拒む。

 ●我情に執らわれ、我性を縁とし、みずから恩恵を拒ける。

 ●帰依と、捨身にかくれ、我意の固執を掩い、活力のおもむくところを蔽し、
これを真の切願にすり替え、あるいは、固執と切願を混淆し、わが心身の改変、
転化を希う自己欺瞞者である。

●常に嫌うべきものの窓口に向け、恩恵の宿りたまえと願つて聖なる力に背向けて、
拒けるべき虚偽に、繰り返し呼びかけて信仰を捧げたつもりでいる。
帰依の全一性を欠く、自己欺瞞の最たるものである。

●真理に呼びかけながら、依然うちなるものが虚偽と無知と汚染のままである。

●聖なる力によって、わが願いは、かなえられるように施設されている、
という傲慢な謬見を懐く。

●聖なる力われを帰投せしむと、自身に蓋をし、他力全托の虚偽に陥っている。

●帰依にせよ、祈るにせよ、惰性的ないし自動的機械のごとき繰り返しに堕して、
眠り呆けている。

※これら内なる虚偽と蒙昧を見究め、これをねばり強く捨て去るには、あるがままの自己凝視すなわち内観に依る自覚が必要である。あるがままを観察し、凝視することで、心は清浄となり、このとき、はじめて聖なる力に呼応し、転身する。
 「如実知自心」とは、自身の蒙昧と虚偽に挑む内なる自己観察力にあるのではないだろうか。

 ※さて、宗教は、どのようなものでも、絶対なる神や教えや聖典、覚者、導師、大師、グル、祖師先德などに対する絶対的帰依心が問われるのであるが、それは、絶対なる神や正法や真理の立場から問われ、如何に、罪深く、業が深く、悔い改めようもなく、救われがたい自分であるかを自覚すべきことが問われる。

 しかし、ブッダやクリシュナムルティは人間ひとりひとりの視点で、この世界の実相、無明の現実を生み出しているものが自身である事実を直視することによって、自我の欺瞞性に気づき、その気づきによって、、執着や自我を離れ、自ずから開かれろ本不生のままに、このかけがえのないいのちを全うせよと導かれた。

以下、J.クリシュナムルティ著『自由への飛翔・クリシュナムルティの瞑想録』(大野純一訳・平川出版)の一節を紹介しておく。

真理は決して過去にはない。過去の真理は記憶の死灰である。なぜならば、記憶は時間の中にあり、昨日の死灰の中には何の真理もないからである。真理は現に生きたものであって、時間の領域にはない。

ところで主張とは明らかにそれがシャンカラであれ現代の神学者であ
れ、いずれ想像力に豊んだ精神の編み出した理論に他ならない。あなたは理論を体得し、まさにしかり、と言うことはできるであろうが、それはちょうどカトリックの世界に生まれ育ち、その制約を受けた者がキリストの幻像を見るのと同じである。明らかにそのような幻像は彼自身の制約条件からくる投影に他ならず、同様に、クリシュナの伝統の中で育った者はその文化を基盤とした経験をし、幻像を見るのである。したがって経験は何ら物事の真実を証すものではない。自らの見た幻像をクリシュナやキリストとみなすのは、結局のところ条件づけられた知識を反映しているのであって、それは経験を通じて強められた空想の所産であり、神話でこそあれ何ら真実ではなく、全く無意味なものである。
一体に人はなぜ理論を求め、なぜ信念に固執するのであろう。この果てしない信念の主張の背後には日々の生活、悲嘆、死、あるいは砂をかむような生の無意味性に対する不安や恐怖が潜んでいるのではなかろうか。
あらわな現実を前にして、あなたは理論を考案する。そしてその理論は、いよいよ精妙さを増し深みを帯びるにつれて重みを加えていき、数百、数千年にわたるプロパガンダを経るとその理論は必然的、かつは愚かなことに〈真理〉として確立されるに至るのである。

 しかし、もしもあなたがいかなる教義も仮定しなければ、そのとき、あなたはあるがままの現実と対峙する。
〈あるがままの現実〉とは思考であり、快楽であり、悲嘆であり、そして死の恐怖である。競争や貪欲、野心や力への欲望、追求に満ちた日常生活の構造を理解するとき、あなたは理論や救世主、導師といったものの愚劣さを悟り、あなたの悲嘆や、思考が作りあげてきた全構造に豁然として終止符を打つことであろう。そのような構造に貫入し、それを理解することが瞑想である。瞑想によってあなたは、この世が迷妄ではなく、人間が他者との関係のうちに構築してきた恐ろしい現実であることに気づくであろう。あなたの悟らなければならないことは、組織宗教や宗教団体における儀式をはじめとする諸々の付帯物を背景にしたようなヴェーダやウパニシャッドの理論ではなく、赤裸々な現実なのである。

 人が恐怖や羨望、悲しみに突き動かされることなく、自由であるとき、そのときはじめて精神は安らかで静謐である。そのときはじめて精神は日々の生活のうちに別々に真理を悟り、さらにはすべての知覚作用のかなたに飛翔できる。そのとき見る者と見られるものという二元性は終焉する。
 けれども、これらすべてのかなたに、現実の混乱や闘争、虚栄や絶望と関わらない、始めも終わりもない流れ、精神がついにとらえられない不可測の運動がある。