法圓寺に出現する氷の秘蹟の考察

 ここにご紹介させて頂いておりますものは、龍雲の身辺に頻繁に現象化する不思議に思えることを通して導かれたものであります。単に、小生の妄想の類いでは片付けられないものでございまして、決して、勿体を付けるわけではありませんが、どうも、この激変の時代のさなかにあって、見えざる如来さまから、われわれに、「何かを伝えよう」とされておられるような気がしてなりません。しかし、申し訳のないことですが、無能の龍雲であるため、そのみこころを十分にくみ取ることも、帯することもできかねております。しかし、小生の愚鈍さにはお構いなしに、様々な現象が出現することは、地球自身が悲鳴を上げているからなのかも知れません。昨今の新型ウィルスの問題は、われわれのあり方に、まさに、一石を投じているかのようです。われわれは、あらゆる意味において、傲慢であってはならないのでしょう。人類の傲慢さが世界を滅ぼしかねない現状を突きつけているのでしょう。あらゆる問題を直視し、人類の叡智をもって対処せねばならないのですが、特に、宗教や科学が自然の背後に隣接している本初不生の如来性(特に氷の三角四面体出現の意味する神聖幾何学が象徴している原理)を直観し、覚醒しなければならないことを指し示しているように思えてならないのです。

法圓寺に出現の氷の秘蹟 全写真  

2008年02月09日 https://drive.google.com/open?id=1R2I6jnuXdEOWP-glTo7dogmoMTjw3g3c

2008年02月22日 https://drive.google.com/open?id=1LcV1Vo_o2X4mv5MXhdS7g6n2PHW5mkbp

2008年02月28日 https://drive.google.com/open?id=18VywmIV-QGGBSb-gjhM5zA-8mqhfD866

2011年03月08日 https://drive.google.com/open?id=1fguh9puKaG3-ZMfeq6KfyjyegTpmiuFq

2013年02月10日 https://drive.google.com/open?id=1pbRhWvWvZP2mvv_XbB9Qq8oTAO26Ip1c

2017年02月25日 
2017年03月11日 https://drive.google.com/open?id=1QAv9vLLRcYz6A4HaL0L3vCfIBCOgh7sq

2018年02月15日 https://drive.google.com/open?id=1oSl8LzKG820w-4gPhmZoR_Rzizq5VuiU

2019年02月16日 https://drive.google.com/open?id=1tzngFeeH2xxXhQNAfaulGfAKSruVppFF

考察① 

 氷の聖像出現、ことに、2017年2月25日と3月11日の二度にわたる三角四面体出現以来、「見えざる世界からのただならぬ気配」を感じざるを得ず、その三角四面体の意味するものを恐る恐る探っている。 この氷の三角四面体出現の示唆する内容については、いずれ、わかるときが来るのであろうが、よくよく突き詰めてみると、これまで、量子物理学・密教や秘教宗教・霊学など意外にも身近なところで、絶えず示唆されてきていたものでもある。 

 これまでの小生の人生の遍歴は全てその力によって導かれてきたとしか言い様がないものであるが、 しかし、あまりにも凡庸すぎ無能である小生であり、その自覚が覚束なく、究めて脆弱なため、このように、具体的に物質化現象として身近なところで導かれておりながら、あまりにも気づくことに遅々として進まない。 

 それにしても、このような自然現象が、小生に対する気づきの促しと表現して良いならば、その促し方には特徴があるように思われる。

 自然や社会の環境における、人や物や本などとの遭遇によるものでも、また、小生自身の宗教的体験による直接の把握や直観によるものではない。小生は幼少の頃から、内面のビジョンを得たいという願望はあったが、・・・・実に、そのような自覚や体験は極めて貧弱でしかない。 

 ましてや、小生の晩年?こういったスピリチュアルな傾向からは一線を画しており、ブッダ親説からして、精神の妄想や幻想の自己欺瞞を最も警戒し、こうした神秘的・心霊的現象には全く関心を示す気すら薄れていたのも事実である。

 しかし、そのような小生の心境などの希薄さには、全くお構いなしかのように、次々と自然現象や本や物や人との絡み合いに遭遇し、そこには、どうも、「或る意思?」が働いているように感じられてならない。結局、こうした現象の事実によって、今では、考えの及ばぬ、無視できない状態に追い込まれている。 

 さて、こうした経緯については、平成31年1月1日発行の『如来性の聖典』の「あとがき」にある程度まとめてきた。 ここでは、その後の、特に、令和元年から今に至るまでの経緯を考察したい。 

 特に、氷の三角四面体出現によって、最大の焦点は、いわゆる物理学や天文学などのマクロ的ミクロ的科学における量子物理学の一派が、見えざる世界や異次元を仮説とはいえどのよう把握しようとしているかに、その関心を懐かざるをえなかった。 物理学は神の領域に入ったとか、あるいは神は死んだなどと、非常に精妙なる領域に進むも、最先端の物理学などにおいても、どういうわけかや、哲学・思想・宗教に見られてきた唯物論や唯心論の展開に二分されるかのような、相似たような見解が繰り広げてられている。 そこで、果たして、量子論の世界は一体こうした世界観の乖離的な見解を解決できるものであろうかという点がまず気になる。 

 小生自身が最大限引っかかるのは、いわゆる、ブッダ親説により「先験より今に経過し消失する空相を如実に見て欺瞞に陥るな」と指摘されておりながら、いわゆる、アートマンやブラフマンなどインド古来の不二一元論の宗教や今日に継承される仏教や世界中に繰り広げられる秘教や神秘思想のほとんどが「欺瞞の構造」に陥っているという点にある。 壮大な神学論にせよ、仏教論にせよ、宇宙論にせよ、所詮、人間の生み出した幻想にすぎないというのだ。先験なる本初不生を覚らないものが、自らの思念や感応により生み出した幻影を、神や絶対空などと絶対化し、あえてそれらに固執する。このこと自体、まさしく、自己欺瞞であり、論を超えたものを理解できないものが詭弁を労しているに過ぎないという指摘である。 つまり、どんなに文明や科学が進歩したとしても、現象を時空に停滞させなければ成り立たないものである虚妄性を理解しないものは欺瞞に陥るというのである。

 さればとて、では、現象化する「先験性」とは、更には、先験から現象化することとは何であるのだろうかという素朴な疑問が、愚鈍な小生には、まだ、残ったままである。

 確かに、ブッダ親説の最大の指摘は、時間と空間の虚妄性、欺瞞性に気づき、速やかにその繋縛から脱することにあった。 しかるに、最近の量子物理学上、仮説とはいえ、心が全てであるとかパラレルワールドとか、タームワープ、タイムトンネル、異次元空間、ひいては、肉体・エーテル体・アストラル体・・・あるいは、フラワーオブライフなど古代宗教に刻印された叡智や神聖幾何学、さらにはUFO 遭遇など、かなり、見えざるものや、虚妄性そのものバーチャルリアリティそのもので実相を述べようとしている方向にあるもので溢れている。これらの表現を見ていると、彼らは、宗教的体験や神秘体験における虚妄性と、科学の虚妄性と、どうも、区別がつかないほど近い世界に突っ込みつつあるように思われる。果たしてこれらは今後どう展開するであろうか。 いつの時代にも、天才といわれるものほど、われわれの固定概念を覆し、壊し、創造に満ちた新理論を打ち立てる。彼らは、大抵異端視される。この意味では、究めて、興味深いものではあるのだが、それにしても愚鈍な小生には、どうしても、混沌とした中で、上記の、虚妄性や欺瞞性の問題が非常に気になるのである。 

 しかし、なんとなく、小生には、次のようなことがあるのではないかと考えている。

 おそらく、次元や場がどこであれ、現象は全て虚妄である。その虚妄の現象といえども、その現象にも、その次元における物理や超次元における物理法則が働いているならば、その理由は全てを貫く先験なる空性が刻々に停滞なく一者として作動しているつねに新たなる空の創造性、即ち現象が、全宇宙を支えているのであろう。 

 はたして、量子論が今後どのようにして検証され展開していくか。 それにしても、身近に起きた「氷の秘蹟」がこれほどまでに新宇宙論に関わることを促すならば、また異なった視点で学ばざるを得ない。どうも、小生の考察の及ばぬ問題にまで追い込まれてしまったのが、ここ数日の出来事である。

考察② 

 令和に入る直前から、今日に至るまで、聖観音に特化したビジョンが内的にも外的(仏像などを通じて)にも、度々出現すことに、やはり見えざる世界からのメッセージ性が含まれているのだろうと考えてしまう。如何せん、小生の凡庸性ではその真意を推し量り難いものなのだ。

 いわゆる、氷の三角四面体と観音の持する蓮華からして、おそらく古代からの神聖幾何学や曼荼羅などに深く関わるものであるのだろう。量子論の仮説とはいえ、その様々な見解にも通じるものがあり、その決定的なものに、異端の天才物理学者たちが、それぞれに独自の仮説を展開する理論のには、極めて密接なヒントが含まれていると感じる。 取りわけ、最新の新宇宙論の仮説には神聖幾何学的な宇宙の構造が具体的に説かれ、その見解には、大旦にも古代の密議や宗教の宇宙的科学文明の高さを表明し、この見解は、かの日本の物理学者楢崎皐が展開したの日本物理に近接するものが含まれている気がする。 但し、小生からすれば、似たような見解を展開している神秘学神智学との関係性については小生には不明である。

 しかし、小生の寺における氷の現象に付随するが如く説が示される様々な理論や見解は、どうも、何か見えざる意図が働いているように感じられてならない。

 それにしても、彼らはいずれも、見えざる世界における統一論を展開しているのだが、現象界においては全く関わっているようには見うけられないのも不思議である。宗教のようにそれぞれの見解において、やはり、彼らも、ほかの者とは全く異なる見解だと言い張るのかも知れないが・・・・・・。

考察③ 

 このような経緯のなかで、ふと思うことに、いわゆる古代の神聖幾何学と氷の三角四面体と曼荼羅はやはり同一原理かも知れないということと、こう頻繁に顕れてきた聖観音の蓮華や八葉蓮華は神聖幾何学やヤタノカガミの物理には互いに通じるものがあるように思えるのは、更に不思議である。彼らとは無縁な無学の小生の前に、いきなり開示されるのは、そのこと自体不可思議なことでもある。

 これらが今なぜ小生のような者にも示されているのか、それについては全くわからない。というより、やはり、小生の一つの思い込み、精神の条件付けが、そういったものに目をとめているだけであり、更に、問題なことに、そうしたたまたまのものごとを何でもかんでも我田引水的に受け止めているだけであり、小生の考察そのものに妄想の欺瞞性が潜んでいるのかも知れない。その証拠に、小生自身が受け止めていることや考察がどれほど世界に影響を及ぼしているのだろうか。それこそ虚妄であり、虚妄の弊害以外何ものでも無いのであり、毒にも薬にもならない方がましなのだろうか?

 それが、事実なのだろうが、しかし、ただ、小生の身辺に起きている現象の事実でもあるので、欺瞞性に注視しながら、探求だけは止めてはならないという強い思いがある。

考察④ 

 ここ数日の経過において、考察するに、最新の物理学理論が、やはり、見えざる世界、神の領域に分け入っているといわれる状況が少しずつ、小生にも見えてきた。とはいえ、小生自身に明らかになったというわけではない。 

 それは、いわゆる、仏陀の親説である本初不生という空の内容に肉薄しているのが、物理学上における最新の宇宙論。とりわけ、真空宇宙やブラックホールの理論にある。最も、明快に論を展開しているのは、最新の物理学上の宇宙論であるように思われる。ただ、これも、いわゆる、小生の勘のようなものだから、科学者でも何でもないものなので、正確にこうした理論を把握したうえでのものではない。

 しかし、恐れずに考察を進めてみよう。端的に言えば、最新の量子理論や天体物理学などの新宇宙論によって小生の近辺に現象化している氷の三角四面体と仏陀親説「先験性すなわち本不生」の見かけ上の矛盾をどう解決するか、一筋の光明が見えてくる思である。これは、同様に、たまたま氷の三角四面体の現象の問題を探っていて見つけた「日本の物理学」という理論における「現象と潜象の互換重合」と最新の宇宙論が非常によく共振するものがあるように感じられてならない。

 ところで、非常に気になることはまだ残る。それは、今日の仏教そのものが日本においても世界においても、かつてブッダ親説が力説された「虚妄の法における欺瞞性の問題」に関しててあるが、今日の世界に伝わる仏教のほとんどがその罠にはまってしまい、仏陀親説の本不生を全く見失っているという指摘がある。

 これは、小生にとっても由々しき問題であり、長い間疑問に思ってきた、無視できない指摘でもあり、放置できない。すなわち、今日の仏教のほとんどが説く「空」の解釈そのものが、虚妄の法に陥ったものであるというならば、その「空」を論ずる物理学者や数学者の見解がいかに革新的ではあるといえども、いわゆる、「仏教に対する理解の基盤をどのあたりにおいて」の見解であるのかが問われることになる。つまり、一般仏教、通仏教的な見解に基づき、それを新宇宙論に当てはめているならば、科学者自身、全く正しい仏教理解に基づいていないことになってしまうからである。ただし、これはあくまでも理論上の話のことで、例えば思想家クリシュナムルティや物理学者デービットボームなどとの対話のレベルなどには、一部の仏教者のレベルを遙かに超えた探求のレベルがあり、こうした理論上の戯論をものの見事に片付けてしまっている。この、明晰性は、実に、かつてのブッダを彷彿とさせるものがあるであるから、科学者といえど思想家といえど探求心の深さは決して侮ることはできないものがある。

 科学における新宇宙論においても、「空」が「無」という概念的「非有非空の中道」などという虚無論を基盤に置くものであれば、ここでは全く論外である。不二一元論のブラフマンやアートマンの虚妄なる説にはまってしまう危険性があるからである。物理学者といえど唯物論や唯神論に別れるという、いわば、見えざる世界の藪の中にはまりかねない。

 しかし、そうはいっても、先験より今に経過し消失する現象はなぜ起こるるのか。この現象そのものが虚妄であるとすれば、その軌跡を踏襲するかのような現象の展開とは何であるのか。時間や空間というものが、脳に記録された虚像が生み出す錯覚であれば、宇宙自然界の展開そのものも、我々が感受する限り虚妄の法であるならば、我々はなぜ先験より今に経過し出現し消えている実相をわざわざ虚妄の法に基づいて認識する現象を生み出すのか。まだまだ、不可解さが残らざるを得ず、探求は遅々として進まない。

 過去は終わったもの。未来はまだ来ないもの。今は現れ即消えている。これを認識している機能が先天性の認識だが、それを脳に蓄積し、経験や概念に置き換えて、さらなる先験なる世界から出現する現象を重ね合わせ、連続体としてその消滅を航跡として理解し、それで、時間的空間的進化の方向を割り出すこと自体を虚妄の法として仏陀は退けられたというが、かく説明し、聞いている我々とはいったい何なのだ。外界に展開する事実とは何か? 

 確かに、欺瞞性は我々の内側にある。外界は我々を含め外界に展開する事象であり、それは生滅刻々一回限りの現象で残るものではない。その残るということは記憶に残る、記録に残るもので事象そのものを指すものではない。

 しかし、最新の宇宙論では、いわゆる、現象界のあらゆるものは、「真空宇宙」から刻々に生じ滅する仮の現象で留まらないものだが、いわゆる真空宇宙といわれる見えざるエネルギーのフルに充満した世界から刻々に命を吹き込まれている。しかもこれらは大宇宙においてもミクロなる小宇宙においてもすべてエネルギー場(フィールド)として統合されているという。 自他の境界のように域や境界が時空を生み出すが、それは、モノが境界を生むのではなく、空から時空が生み出されているだけだ。空は実に空っぽではなくエネルギーがフルな状態にあり、そこには時空の域はない。自他の区別によるような認識はない。すべては、いわゆる絶対的に「一」であるという。 

 物理学では異端論とされる仮説では、この決して把握することのできない見えざるエネルギーに満ちた真空宇宙をいわゆる仏教におけえる「空」と理解している。 これは、「先験性」すなわち「本不生」を物理学的に指示したものであろう。この「空」は仏教の虚妄論者が陥った「空っぽの空」、概念上の「空」や「ゼロ」ではない。さらには、初期の仏教徒が陥った原因と結果の因縁所生による相依性による存在の実態であるのだから、なんら自我のような主体はないとするゆえに「空」であるとする仏教的唯物観でもない。 ただ、問題は真空宇宙におけるダークマター、ダークエネルギー。あるいは銀河団や原子内におけるブラックホールをどう把握するかである。 つまり、脳内から意識内そして大宇宙内と拡大する自己認識(フードバック)がどのような展開をするのか。 楽観論的には神や仏陀や如来などの象徴される自他の区別がない一者の意識でないと、大宇宙を舞台に展開することはないということなのだろう。 

 ここで気になることを新宇宙論は語る。「いかなる無限小の営みも無限大の営みもすべては「空」に記録され、それが、新たな出現に絶えず反映されながら、ランダムではなく、あらゆるものが互換重合し、統一された方向に絶えずとどまることなく回転し、出現していると見るのが最新の宇宙論である。」という。 

考察⑤

 さて、以上のような経緯を踏んで考えつつも、小生にはまだ以下のような疑問が残るのである。 氷の現象を聖体出現と名付けその意味するところを理解する格好の論者に巡り会ったとしても、所詮、自分にとっては表現された世界に過ぎない。自らが覚醒していなければ、所詮、絵に描いた餅に過ぎないし、自己にないものを得ようと一生懸命学んだとしても、覚醒せざる者の妄想を重ねるだけである。先験性、潜象、本初不生、空、一者、神、慈悲、愛という現象・潜象を超えたものを知識や思考で追うこと自体、所詮、自己欺瞞に陥っている。では、こうした不断の現象の表現に対して、無自覚の、浅学非才の自分はどう向き合えというのか!愚にもつかない思念や思弁を止めて、ひたすら、無心・無垢なる心で、これらのヒビキに耳を澄ませせれば、自ずと本質から響くところのものを理解するであろう。正しいとか間違いなどといったこととは全く異なった次元で・・・・・現象は私を超えたものであるのだから、何事にも、その機縁を直視し、黙して語らず、ひたすら傾聴する姿勢が大事なのだろう。

考察⑥

 それにしても、小生にはまだまだ自身に対する疑問が残るのである。

 すなわち、

 慈愛そのものは慈愛を意識しない。光そのものは光を意識しない。そのように、本初不生は、本初不生を意識しない。慈愛も光も本初不生も遍在なるが故に。故に世界は慈愛や光や本初不生に満ちている。
しかるに、慈愛を求め、光を求め、本初不生たらしめんと欲するものはだれか。
孤立した私である。
私のいまは。苦しい。激痛。死滅。孤独。不安。恐怖。失望。悲しみ。空虚。怒り。嫌悪。憎しみ。喪失。困窮。逃避。矛盾。搾取。暴力。戦争。破壊。欺瞞。不自由。繋縛。呪縛。条件付け。競争。無価値。無意義。無意味。・・・・
世界は四苦八苦の苦である。
救いを求めざるを得ない。
この世界で救いを求めているのは誰か。
この世界を分断するのは何か。・・・・・