【推考の基盤】


龍樹 般若論(中論)帰敬偈

滅するのでなく、生ずるのでない。
断滅でなく、常住でない。
一たるものでなく、区別あるものでない。
来るのでなく、去るのでない。  


 外界における〈変動〉は、過去と未来の境の〈今〉に位置して〈経過}し、消失して、常に改まっている。
 『八千頌般 若経』第六章が言うように、無常な外界は〈今〉静止したものとして成立しないまま〈経過〉し、消失する。 
 知覚原因は外界にある静止した対境ではないため、われわれには捕捉されない。したがって、表現されることもない。  
 このように〈経過〉し、消失する〈今〉の〈変動〉に向き合いながら、生物は天与の知覚能力によってこの〈経過〉の「相続」を、瞬間毎に持続する軌跡の形に変えて「感受」する。
 このことによってわれわれは、生理機構の中に、「現在」という一瞬の、虚構の滞留を構成しながら、そこに「縁起生」を進行させ、表象の知覚を成り立たせている。これ以外の方法で、外界の在り方は生体によって捕捉出来ない。  
 「般若論」 の基本的な考え方では、
 仏陀の言う「縁起生」は、このようにして知覚が外界の「変動する経過」に向き合って毎瞬問取り込んだ軌跡を「感受」しながら、表象を成立させている事情だと見る。
 つまり、「帰敬偈」は外界の実体的な「有為法」成立を否定し、知覚に虚構として「縁起生」する、生理的「現在」の表象形成を仏陀の説いた趣旨に即して表現している。  
 生体の知覚は一瞬間にその感受を纏め、そこから静止的もしくは変動を曖昧な状態で思わせ表象を経験する。ただ、 経験し終わったとき、外界の先験的な知覚原因はすでに〈経過〉し、消失しているので、表象も構成された直後に失わ れる。
 このような理解に立っている。
 それは知覚にのみ「顕現し、消失する」ので外界にそれらに相応するかに見え る実体的「生・滅」はない。
 それ故この表象の「消失、顕現」を「滅するのでなく、生ずるのでない」と言う。  
 普通相前後する表象の連鎖は.一々知覚に意識されない。
 「知党原因」の〈変動〉が〈経過〉し続けるため、どのような場合も、同じ表象が重ねて知覚されることはない。
 このことを仏陀が『スッタニパータ」七五七番で教えている。
 前後の別を意識できなくとも、決して変わらぬ実体が外界にあって前後同じ表象によって「常住」な在り方を知覚に伝えることはない。
 「虚妄の法とされる表象が前後で異なって知党される場合も、先にあった実体が滅してなくなり、後の実体が生ずるようなことはなく、一旦虚無になる「断滅」状態と新しい「常住」状態が忽然と成立するのではないとしているのである。  
 次々の瞬間に顕れる表象は前後が区別できないため、「静止像」としてしか意識されないが、それらの前後が相違する場合を捉え、われわれは「瞬間」毎の「推移」を意識する。
 この「瞬間」は理論的には表象の成立する瞬間相応の「現在」毎に刻まれることになるであろう。  
 その「推移」は、部派仏教の「有部」が言うように何処かの「未来」にあった実体が忽然と目の前の外界に来て現れたり、あった実体がどこかの「過去」に卒然と去ったりするような形で成立しているのでないと判断される。
 それが「来るのでなく、去るのでない」という表現になる。  
 それゆえ、そこに惟測される「推移」の前後に表象の顕現と消失が繰り返されても、それらに相応して写される「言語表現」どおり、外界に、不変の実体的対象があったり、区別が生じて「変化」したりして、前後同一であったり、区別があったりはしないというのが「一たるものでなく、区別のあるものでない」という表現になる。    
 なお、ほとんどの者が「帰敬偈」 を「八不」と称するが、それは訳語からして誤りである。
 否定辞は「不」ではなく、全て「非」が冠せられている。
 この「非」の意味は、論埋的な「排中律」に従って、実体的な在り方の一方を否定して他方の実体を指して、それで全てだとする場合の「非」ではなく、正否の両概念の実体的な在り方そのものを全て否定する「非」であり、仏陀が成道直後の宣言に自らの哲学が「論理的思考」の範疇外で説かれているという立場に立っている。