【無量壽如来観行供養儀軌 心被授の経緯】


はじめに

 ここにご紹介させて頂いておりますものは、龍雲の身辺に頻繁に現象化する不思議に思えることを通して導かれたものであります。単に、小生の妄想の類いでは片付けられないものでございまして、決して、勿体を付けるわけではありませんが、どうも、この激変の時代のさなかにあって、見えざる如来さまから、われわれに、「何かを伝えよう」とされておられるような気がしてなりません。しかし、申し訳のないことですが、無能の龍雲であるため、そのみこころを十分にくみ取ることも、帯することもできかねております。しかし、小生の愚鈍さにはお構いなしに、様々な現象が出現することは、地球自身が悲鳴を上げているからなのかも知れません。昨今の新型ウィルスの問題は、われわれのあり方に、まさに、一石を投じているかのようです。われわれは、あらゆる意味において、傲慢であってはならないのでしょう。人類の傲慢さが世界を滅ぼしかねない現状を突きつけているのでしょう。あらゆる問題を直視し、人類の叡智をもって対処せねばならないのですが、特に、宗教や科学が自然の背後に隣接している本初不生の如来性(特に氷の三角四面体出現の意味する神聖幾何学が象徴している原理)を直観し、覚醒しなければならないことを指し示しているように思えてならないのです。

●『無量壽如来観行供養儀軌』心被授の経緯  平成二十三年八月二十九日以来、小生、不思議な佛縁を頂戴し、朝日山萬歳楽院法圓寺本尊大日如来・補陀洛山善明院歓喜寺本尊阿弥陀如来・歓喜寺に祀られし大光山正徳寺本尊阿弥陀如来の三本尊のご加護を被るに至る。  ことに、歓喜寺の位牌堂に安置されていた阿弥陀如来に初拝仰以来、このご本尊如来から頂戴するヒビキ(加持感応)には、尋常ならざるもがあった。  この不思議なヒビキ(加持感応)に導かれるまま、先ずは、このご本尊を位牌堂から、歓喜寺本堂正面より入ってすぐ左、西を背にした処に移し(そのように如来からの直接の響きを感じ)ご安置申しあげた。そのおり、たまたま、大佛の御体内に、「大佛建立の所縁」の墨書きがあることを発見。次に掲げるごとく墨書きされていた。  享保六年辛丑歳八月吉日(西暦1721年)  大安寺十世 木蓮社良覚上人弟子  大光山 正徳寺 住職 四世 想蓮社 良環團秀代  施主化者 桑折町在住 角田三左衛門  更に  □供 俗名大和□彌□衛  釈空心  釈妙信   不退位   角田三左衛門 花押  □菩提也  更に その隣には  文政十二巳丑歳二月吉祥日(西暦1826年)  宥政 本尊 持久  湯野不動寺大阿闍梨法印宥精佛子  歓喜寺五世 法印 宥政  この墨書きによれば、この阿弥陀如来の造立の経緯が明らかである。  大光山正徳寺とは、現在の無能寺の改名前の元々の寺名であった。  無能寺の寺傳には、正徳寺は第四世にしてひどく衰微してしまったとあり、このときの第四世の住職の名すら残されていないという。  かなり衰退した正徳寺のありさまを憂えた正徳寺第五世不能上人が、寺院再興ため、一念発起し、また当時、希有高德の法兄無能上人の御威徳を深く信奉し、弥陀本願のご念仏を高揚せんと、二十年程をかけて全国を勧進されて、ようやく、無能上人を第一世とする正徳寺改め守一山無能寺として、新寺建立し、再興に至ったとされる。  無能上人は、その峻厳なるご念仏聖行の聖僧であった。全国の念仏衆徒は無能上人を深く敬慕し、帰依し、上人のご法縁にあやからんとして、上人の住まう桑折の草庵を詣でる参詣人はかなりのもので、日々、数万人にも及んだと伝えられる。  この無能上人の御遺徳を偲んで、無能上人を第一世と仰ぐ「守一山無能寺」は建立されたが、爾来、今日に至るまで、浄土門檀林として全国に名を馳せ、僧俗、老若男女を問わず尊崇する、阿弥陀念仏三昧の高貴な寺院である。  ところで、北半田の真言宗歓喜寺は四百年ほどの歴史を有する寺である。その寺に本尊とは別に、古くから祀られていた阿弥陀如来があったが、その由縁については、これまで、全く不明であったという。古老の伝えでは、この阿弥陀如来は不遇な変遷を経て、この寺に勧請されたらしいが、よくわからないとされていた。  今回、その阿弥如来の御体内に記された墨書きに目がとまり、そこに、なんと、正徳寺第四世(無能寺寺傳に、正徳寺は第四世の代に寺が激しく衰微したとされる、當の住職)の、御名自筆が銘記されていた。それで、この阿弥陀佛が、正徳寺第四世 良環團秀上人によって造立された阿弥陀佛であることが判明したのである。今このときに何故か?と、その不可思議さに驚かざるを得ない。   奇しくも、東日本大震災直後、平成二十三年八月二十九日、小衲、歓喜寺の事情により、寺の総代達とともに、歓喜寺本堂に入り、震災被害が生々しく残ったままの本堂裏の位牌堂において、この阿弥陀仏に初めてお会いした。そのとき、どうしたことか、この阿弥陀如来の両御眼から涙の滴るを発見し(光の加減)、愕然とする。果て、これはいかにと怪訝に思い、しばらくご尊像の御前から動けなかった。確かに涙が流れ落ちているとしか言いようがなかった。すると、不思議に、この阿弥陀仏の御声のようなものがして、次のように響いていてきた。 「多くの人々が苦しんでいるこの大事なときに、私を寺の奥にしまいこんでおかないでおくれ。私は、あらゆるもののココロの支えとなって、苦しみを除き、すべてのものを済度すべく、誓願を込めて、ここに刻まれている。お願いだから、誰もがお参りできるところに、私を置いておくれ・・・」(それは何処にですか?)とお尋ねすると、「歓喜寺本堂正面より入って、すぐ左奥、西壁を背にした処だ!」と明確に仰せになられる。程なくして、この寺の総代さんがたに、この阿弥陀さまのことについて相談してみると、なんと、この阿弥陀さまは、もともと、本堂新築前は、本堂を入ってすぐ左手奥。西を背にした処に祀られていたのだという。皆、幼い頃は、よく台座の下に潜って遊んでいたのだという。その当時、この寺とは関係は無く、そのことは全く知らなかった。  それではと、急ぎ、この阿弥陀如来を御移座申しあげるべく、六人ほどでお運びしているときに、佛の御体内に墨書きが残っていることを発見したのである。  このことは、かえすがえすも不思議でならない。この年、千年に一度という東日本大震災の地震と津波と原発放射能汚染の未曾有の大災害に見舞われたときであった。愚僧、萬歳楽山信仰開山や法圓寺境内に現出する氷の聖体現の不可思議さとも相まって、この、不可思議なる阿弥陀如来の御音声に、計り知れぬ如来のお慈悲を痛感せずにはおれなかった。  故に、生涯を尽くし、朝日山・補陀洛山・大光山の三体のご本尊のお仕えさせて頂く覚悟である。  それにしても、この御法縁にあやかる三本尊のヒビキ(加持感応)は、愚僧にとっては、これまでになく具体的ヒビキ(加持感応)であり、親りに導かれていることを実感している。   更に、驚愕せずにはおれないヒビキ(加持感応)が起きた。それは何かと申せば、今回、奇しくも、内的体験がきっかけとなって、『無量壽如來供養作法次第(紅頗梨秘法)』に導かれたのである。  ただ、せっかく、ご本尊の有り難い御内示を被りながらも極めて愚鈍の貧僧であるため、とうてい佛の御導きに応えられることは適わないのである。  また、こうした真言秘密事相に関わる次第は、本来、この紅玻璃法を受け継ぐ阿闍梨から弟子へと口伝によりて、受け継がれるものであり、その法脈や印信が重要な証ともなる。  されど、愚僧のたわいもない内面の体験が引き金となっているばかりか、愚僧が次第を乞う縁とすべき恩師・師僧大阿闍梨はすでに遷化されてしまい、教えを請いたくとも身近には知る人はなく、ただ、ひたすら、この三本尊の御内示のお導きのままに、至らぬものをかえりみず、自身用としてまとめるより外なかった。  しかし、有り難いことには、如来からの直接のヒビキ(加持感応)を頂戴している。これは、所詮、蒙昧なる幻想と思い込みによるものに過ぎないとの嘲笑をいただくものであろうが、しかし、如来性のご教導は、実に具体的なもので、細かく裏打ちされるものであった。これらは、明らかに小生の今の力量を超えおり、不思議でならない。それだけに、正直に申せば、愚かなるが故の大過失を最も恐れている。  しかし、体験が起こり、しかる後に、その裏付けともとれる先師・先徳の著された「次第」が示されるという具合であった。実に、不思議としか言い様がない。  その如来の直接の思し召しの状況について、その一端をありのままに記せば、次の如くであったのである。  あるときのこと、いつものように、歓喜寺本堂で、亨保六年造立の正徳寺本尊阿弥陀如来の御前でわずかばかりの阿弥陀仏の真言をお唱え、祈念を凝らしていた。  すると、突然、眼前に、真っ暗な虚空が広がり、そこにぽっかり浮かぶ碧き寶球が顕れた。それは実に美しい瑠璃色の丸い寶球であり、ちょうど、宇宙から見た地球のように感じられた。驚いたが、顕れるままに、閑かに、黙想を続けていると、やがて、その地球に白い雲海がたなびき、次第に包み込み、地球のような寶球全体をすっぽりと覆い尽くすほどになった。すると、その雲海の雲間のアチコチで稲光が走っていることに気づく。やがて、その閃光は、まるで、地球の中心から、四方八方に閃光が放射され、あらゆるものを貫き通す強い光となった。しかし、その光は決して眩しいものではなく、やわらかな光であった。生気のみなぎる流動する偉大なる光であった。やがて、その一条の光の一部が、緑がかった黄金の龍体へと変化し、力強く流動する。地球の中心から放射する光柱にそって8の字描くように流動し、旋回しながら、上昇し、下降している。よく見ると龍とではなく、無数の光の束であった。それらがまるで自転・公転しながら、互いに全体として統合されているようであった。  それは、また、ちょうど、巨大な五鈷杵を連想させるような光の流れでもあった。その五鈷杵の芯、則ち、真ん中に地球に見える寶球があって、それを中心に縦横無尽にエネルギーが流動している。雲海の中で光が走り、五鈷杵が出現し、その五鈷杵は縦横に帯状の光となり、八輻の輪寶羯磨のようであった。そのまま、八葉の蓮華のようでもあった。  しかし、それは、もっと強大でダイナミックな流れがはたらいていて、まるで広大な宇宙から下降する三角四面体の火炎と広大な宇宙へと上昇する三角四面体の火炎が双方逆回転しつつ互換重合しているようであった。  やがて、光の放射状の芯から、一条の光がまっすぐに私へと伸びてきて、私の頭上から体内に流れ込んいで来るようであった。すると、今度は、その光に導かれて、私自身がその光の本体である地球の中心へと吸い込まれていった。その中心に近づくにつれ、水晶のような柔らかな美しい球体が顕れた。その球体の芯のほうから、神々しい光、夕日のようなやわらかで、どこか懐かしく、穏やかで落ち着く、真冬の東の空の曉光のような薄紫がかった赤色の透明な球の光となり、更に近づくと、なんと、その中心に[寶冠をかぶった、まさに大日如来のお姿]が顕れ、輝いている。やわらかな光ではあるが、しかし、神々しい光輝でおられる。畏れつつも、心を込めて見つめていると、やがて、その大日如来の御手の印相が「彌陀定印」であることの気づいた。そのままじっとしていると、突然、視界が開け、天地一切の森羅万象、万生万物の生きとし生けるものの中芯に十方からその如来の光が流入し、溢れ満たし、包みこまれる。その如来性が、個々のいのちを刻々に現象化させているのを親りにした。その遍満した如来の光が、局所化された個々性に阿弥陀如来として出現し、それは同時に背後に遍在する阿弥陀仏光と互換重合していて、時々刻々、決してとどまることなく阿弥陀如来の無量なる慈悲の光が創造の源泉大日如来と一体となって、潜象と現象一つの光となって法輪を転ずるがごとく、万象万物に浸透していることを親りにした。  嗚呼、これこそが、長い間、もとめてきた佛陀親説の本不生の実相。弘法大師が示した阿字本不生であるのだろうか!  この、黙想は、ふり返るとすごく長いプロセスのように感じたが、実際は、ほんの数秒のことであったと思う。  この導きにあって、これは、危機に瀕した地球上の大転換を導く如来性が、いずれも三〇〇年余前に造立された三体の御本尊を通して、ありがたくも万象万物の救済のヒビキ(加持感応)として発せられていることのように思えてならない。  しかし、いかにせん、小生は、無能極まりなく、このようなビジョンを与えられても、どうすることもできないし、話したとしても、妄想で片付けられるものである。  とはいえ、このいのちの限り、これら三本尊を御ヒビキを体して、いつでも、どこでも、死に際にあっても、ひたすらご念じ申しあげるほかすすべはないと感じている。  この黙想を頂戴した後、法圓寺に帰って、偶然、傳・弘法大師の「紅玻璃色阿弥陀如来供養次第」に巡りあった。そこで、初めて、自分が内的に感受させて頂いたものは、この紅玻璃色阿弥法のことなのかもしれないと思ったのである。  それから、だいぶ時がたって、今年に入って、今度は、不空三蔵訳の「無量寿如来供養作法次第」に遭遇。これも前後に何の脈絡もないひょんなことからでのことであった。驚いたことに、この中に、紅玻璃色阿弥陀と同文の文章があり、しかも、「十八道念誦次第」の根拠となっているという添え書きがあった。  ようやく、ここに至って、この私が修法すべきは、紅玻璃色阿弥陀如来供養法次第であったことに気づいた。(あまりにも遅すぎたが・・・・) 【おわりに】  かの、正徳寺の阿弥陀如来が造立されたのは、高徳の傑僧無能上人が御遷化されてちょうど三回忌の年、享保6年であった。その当時の建立施主檀那は角田三左衛門であった。彼は團秀上人や無能上人や不能上人の御師匠である良覚上人の住まう浄土宗大安寺の筆頭の大旦那であった。この、角田家はもともと京都八文字屋で桑折に移住してからも八文字屋の屋号を名乗っている。角田三左衛門夫妻は無能上人を誰よりも深く信奉し尊崇していたと伝えられる。  奇しくも、平成三十年は、その無能上人の三百回忌の御遠忌にあたり、その御遠忌法要が行われるという。  まさにこの時期に、紅玻璃秘法を自行用にまとめることができのも、宗派は異なるけれどもまんざら無縁のことではなかったのだろうか?  あまりの不可思議さに、無能寺の現住職様にもこの経緯をお伝えさせて頂いたところである。  尊くも有り難き如来の思し召しに深く感じ入るばかりである。                     合掌   平成三十年十月九日                   如来の御法恩に感涙しつつし 龍雲好久 拝

以下は令和4年プーチンの戦争を止めて、世界に平和が樹立されるよう日々修法するように導かれた、龍雲私的な修法である『紅玻璃秘法次第』です。真言における公的伝授にではありません。参照用です。あらかじめお断り申しあげますことご容赦ください

参照 https://drive.google.com/file/d/1PtiMFGfWmXsZrLDbkCRmEDScoQiu4Qfo/view?usp=share_link